歴史を知らないのは本を途中から読んでいるのと同じこと。
ぼちぼち書き足していきます。
・馬齢は現表記。
目次
プロローグ
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12世紀頃イギリスで最初の競馬が行われたとされるイギリス
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1540年世界初の競馬場、チェスター競馬場が建設イギリス
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1700年頃品種改良が進み、サラブレッドが誕生イギリス
イギリス貴族が中東からアラブ種などの馬を大量に輸入し、ヨーロッパの馬と掛け合わせ、競馬を通じて選別していった。 -
1776年9月24日第1回 セントレジャーステークスイギリス
アンソニー・セントレジャー陸軍中将らにより創設。世界最古のクラシック競走。 -
1780年5月4日第1回 ダービーイギリス
セントレジャーの盛大さに感銘を受けたダービー伯爵らにより創設。前年よりはじまったオークスの牡馬版として開催。最初の3年は1マイルの直線コース、4年目より2400mに延長。1872年から現在のコースで施行されている。
1809年に第1回2000ギニー、1814年に1000ギニーが開催されクラシック競走が出揃う。 -
1791年ジェネラルスタッドブック(血統書)が刊行イギリス
サラブレッドの体系的な血統書。紆余曲折の末、1969年発行の第36巻でサラブレッドの定義を「連続して8代にわたってサラブレッドが交配された馬」と定めた。 -
1836年第1回 ジョッケクルブ賞フランス
Prix du Jockey Club。通称、フランスダービー。フランスの競馬は「イギリスかぶれ」のフランス貴族が、イギリスで行われていたものをそのまま持ち込んではじまった。
居留地競馬と西洋式競馬のひろがり
居留地競馬
江戸末期、諸外国より開国を迫られ、横浜に外国人居留地ができる。そこでは娯楽として競馬が行われ、日本人が西洋競馬を知ることになる。1899年に条約が改正されて外国人居留地が廃止されるまで居留地競馬は続く。
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1860年居留地競馬の記録江戸時代末期、鎖国が解かれ横浜(現・横浜市中区元町)に外国人居留地が設けられた。そこで開催された競馬が日本最古の洋式競馬とされる。
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1862年日本初の洋式競馬場競馬場
横浜新田(現在の横浜山下町横浜中華街)に横浜新田競馬場が仮設。使用は1年のみ。 -
1862年横浜レース倶楽部が発足横浜の外国人居留地における競馬施行体として発足。1875年に特別会員として初の日本人馬主となった西郷従道(隆盛の弟)が所有馬のミカン号に自ら騎乗し、日本人馬主による初勝利をあげる。1880年に日本レース・クラブに発展、日本人の入会も可能となった。このとき入会したのは伊藤博文、松方正義、大隈重信、榎本武揚、岩崎弥太郎、尾崎行雄など。1937年日本競馬会設立を受け解散。
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1866年日本初の常設競馬場競馬場
江戸幕府が外国人居留地内(現・横浜市中区根岸台)に居留外国人のための娯楽施設として常設の洋式競馬場「根岸競馬場」を開設。1937年、横浜競馬場に改称。1943年に閉場。
明治初期からの競馬事情
居留地競馬と並行し、根岸競馬場での洋式競馬を模倣した競馬が各地で行われる。この競馬は政界、財界、軍、皇室など上流階級の催しであった。ただ馬券の発売は認められず、経済的な理由で明治30年代にはすべて廃れた。なお、この時期に用いられた競走馬は日本在来種および雑種である。
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1868年明治元年
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1869年第1回 ドイチェスダービードイツ
通称、ドイツダービー。 -
1870年東京招魂社で兵部省主催の洋式競馬日本人が運営する国内初の洋式競馬。1898年まで招魂社(現・靖国神社)の例大祭に際して競馬が開催(招魂社競馬)された。
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1875年5月17日第1回 ケンタッキーダービーアメリカ
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1884年6月12日セントサイモン、アスコットゴールドカップを20馬身差で制覇イギリス
セントサイモンは史上もっとも偉大なサラブレッド種牡馬と呼ばれ、競走馬としては10戦10勝の圧勝続き。種牡馬としても凄まじい成功を収め、現在セントサイモンの血を持たないサラブレッドは存在しない。アスコットゴールドカップは当時の古馬最高峰で、王室が開催するイギリスでもっとも歴史のある競走。
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1888年日本レース・クラブが日本初の馬券を発売馬券
馬券は1枚1ドル。日本レース・クラブが主催する居留地競馬は治外法権に基づいており、明治政府による賭博禁止の影響を受けなかった。 -
1894-95年日清戦争
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1895年オーストラリアより競走馬の輸入を開始
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1904-05年日露戦争
公認競馬の時代
公認競馬
政府公認の法人が競馬を主催。公認競馬は当初法的根拠がなく「馬券に関する内閣決議書」により正当化されていた。馬券の射幸性に対し批判的な風潮が強まると、刑法を根拠に馬券発売を禁止。1923年になり競馬開催の根拠となる法律(旧競馬法)を制定し、馬券発売も復活。公認競馬は1948年に国営競馬に継承されるまで続く。
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1906年-1907年馬券発売黙許競馬1905年12月に政府公認の社団法人、東京競馬会へ馬匹改良を名目に馬券黙許が内達される。これに伴い競馬熱が高まり各地で競馬会が乱立、非公式な競馬も開催され、闇での賭けも盛んに行われた。公認競馬では2~5円のパリミュチュエル単勝式(現在の単勝と同じ仕組み)のみ発売されたいた。
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1907年小岩井農場、繁殖牝馬をイギリスより輸入牧場
1890年、三菱社社長の岩崎弥之助(三菱創業者、弥太郎の弟)らが岩手県岩手郡に牧場をひらく。1899年に岩崎家の所有に。その財力で外国から優れた繁殖馬を輸入できた数少ない牧場だった。1907年にイギリスから輸入したビューチフルドリーマー(子孫にメイヂヒカリ、シンザン)、フロリースカップ(スペシャルウィーク、ウオッカ、レイパパレ)、アストニシメント(クリフジ、メジロマックイーン)らが系譜をつなぎ日本競馬の礎を築いた。1949年にGHQの勧告により競走馬の生産から撤退。現在は小岩井コーヒーなどを製造販売。 -
1908年馬券の発売禁止により補助金競馬へ競馬熱の高まりにより身持ちを崩すものが現れ、騒擾事件が頻発するに及ぶ。また新聞各社が一斉に馬券発売を非難する論陣を張ったこともあり、政府は馬券の発売を禁止。各地の競馬倶楽部は政府の補助金により競馬を主催。
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1912年大正元年
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1920年10月3日第1回 凱旋門賞フランス
第一次世界大戦後に衰退したフランス競馬再興を掲げて誕生した国際競走。創設以来、芝2400mで開催されている。第2回を制したフランス馬クサールの優勝タイム2:32.96は、今日の渋った馬場なみとなかなかに速い。 -
1923年7月1日旧競馬法が施行第一次世界大戦後の赤字財政下、陸軍は軍隊の機動性向上のため馬匹の改良および軍馬の生産の必要に迫られていた。陸軍はこの解決のため競馬に着目。競馬開催の法的根拠となる法案制定を強く後押しする。1923年4月10日、旧競馬法が成立。馬券の発売も条件付きで合法化された。以降、各地の11の競馬倶楽部により競馬が開催される。
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1926年昭和元年
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1927年下総御料(しもふさごりょう)牧場で馬の生産業務再開牧場
千葉県成田市にあった官営牧場。御料牧場は宮内庁が管轄する牧場で、皇室で用いられる農作物を生産していた。
サラブレッドは軍馬に不向きとされ、官営牧場での生産は小規模だった。民間(主に小岩井農場)から繁殖馬を譲り受けて生産を続けたが、旧競馬法が制定されると官営牧場からも名馬を生産しようとする機運が高まる。
1927年にイギリスから種牡馬としてトウルヌソル(プリンスオブウェールズSなど)を輸入。トウルヌソルはワカタカ(第1回ダービー馬)、クモハタ(ダービー馬、6年連続のリーディングサイアー、産駒にメイヂヒカリなど)、クリフジ(変則三冠の無敗牝馬)などを輩出し、小岩井農場の種牡馬シアンモア(3年連続で産駒がダービー制覇)と二大種牡馬時代を築いた。1935年には種牡馬ダイオライト(英2000ギニーなど)を輸入。ダイオライトは4回リーディングサイアーとなり、代表産駒には三冠馬セントライトがいる。
1926年から32年にかけて繁殖牝馬も輸入しており、代表的な馬に種正(子孫にバンブーメモリー、イナリワン)、星旗(クモハタ、ハクチカラ、ゴールドシップ)、星若(テンポイント)、星友(トウカイテイオー)、星谷(サニーブライアン)らがいる。(※種の接頭語はイギリスから輸入、星の接頭語はアメリカからの輸入馬)
1969年8月18日に牧場閉場式を挙行。 -
1928年馬名に使える文字がカタカナのみに馬名
それまでは漢字の馬名や「第二」「第三」などがついた馬名も認められていた。「ザ・キング」など中黒の表記も認められていた時期があった。 -
1932年4月24日第1回 東京優駿大競走(日本ダービー)新設
1908年の馬券の発売禁止により陥った馬産の衰退を食い止めようと、高額賞金の大レースであったイギリスのダービーを模した競走を設立した。第1回は東京競馬倶楽部主催で目黒競馬場の芝2400mにて開催され、優勝賞金は1万円(従来の最高賞金は6000円)。19頭が出走し、下総御料牧場産のワカタカが1番人気に応え2:45.2で優勝。「日本ダービー」の副称は当時から使われ、競走の模様は発走前の下見所の様子から本馬場入場、表彰式に至るまで全国へラジオ中継された。 -
1934年12月5日第1回 大障碍特別競走(中山大障害)新設
中山競馬倶楽部の理事長だった肥田金一郎が東京優駿(日本ダービー)に匹敵する中山競馬場の名物競走とすることを目的として創設した障害競走。翌年から春秋の2回開催に。 -
1936年5月29日日本競馬会設立全国11の競馬倶楽部をまとめ、日本競馬会が設立される。今の日本中央競馬会(JRA)の前身ともいえる組織。イギリスに倣いクラシック五大競走の確立などレース体系の整備を行った。日本競馬会主催の競馬は戦後の1948年まで続く。
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1937-45年日中戦争
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1937年12月7日第1回 帝室御賞典(天皇賞)新設
1905年に横浜の日本レースクラブが明治天皇から菊花御紋付銀製花盛器を下賜され、「The Emperor’s Cup」を創設。翌年に東京競馬倶楽部に、その後も各地の競馬倶楽部に御賞典が下賜され、帝室御賞典競走として施行されていた。日本競馬会の設立を機に各地の帝室御賞典競走をまとめ、春は阪神、秋は東京で開催されることに。なお天皇下賜の賞品が最初に授与された競走は1880年6月9日に横浜競馬場で行われた「The Mikado’s Vase」。
天皇賞の呼称となるのは1947年秋から。 -
1938年11月23日第1回 阪神優駿牝馬(オークス)新設
1943年から京都、1946年から東京で開催となる。 -
1938年12月11日第1回 京都農林省賞典四歳呼馬(菊花賞)新設
菊花賞の名称になったのは1948年。 -
1938年ネアルコ、パリ大章典など7戦7勝イタリア
世界的馬産家フェデリコ・テシオの傑作。通算14戦14勝、当時世界有数の国際レースだったパリ大賞典を有力馬が集ったなか快勝した。産駒のナスルーラ、ニアークティック(ノーザンダンサーの父)、ロイヤルチャージャー(サンデーサイレンスの4代前父)などを通じて世界各国でその血が繁栄。 -
1939年第1回 中山四歳牝馬特別(桜花賞)新設
第1回は中山芝1800mで開催。1947年に桜花賞に改称、京都の1600mで開催されるように。 -
1939年4月29日第1回 横浜農林省賞典四歳呼馬(皐月賞)新設
第1回は横浜競馬場で芝1850mで開催。紆余曲折あり、現在の中山芝2000mの形式になったのは1950年。 -
1941年12月8日-1945年9月2日太平洋戦争
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1941年セントライト、初の三冠セントライトは小岩井農場生産馬。父はイギリスのクラシックホースとして初めて輸入されたダイオライト、母もイギリスからの輸入馬フリッパンシー。通算12戦9勝。菊花賞の前哨戦は68kgの斤量を背負い2着に敗れている。
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1943年6月6日クリフジ、ダービー制覇クリフジは下総御料牧場生産で、セリでは当時のダービー1着賞金の4倍の値(4万円)で落札された。11戦全勝、うち7戦で着差10馬身以上をつけた。ダービーは大きく出遅れての6馬身差、オークスは10馬身差、菊花賞は大差の変則三冠。クリフジの次に牝馬でダービーを制するのは64年後のウオッカ。
最年少記録(20歳3か月)でダービーを優勝した主戦の前田長吉は、1944年10月14日に陸軍に徴兵され、敗戦後はシベリア抑留となり現地で死亡している。 -
1945年能力検定競走の実施戦時中であり、1943年には馬券発売を伴う競馬開催が一時停止。1944年に東京、京都競馬場で能力検定競走を施行。1945年には都心部での競走開催が難しく、北海道と東北で行われた。
主要競馬場の設立と変遷
東京競馬場
起源は1907年の目黒競馬場。東京優駿(ダービー)の第1回は目黒競馬場で開催された。1933年に目黒競馬場が手狭となったことから移転。目黒にあった厩舎群も府中町(現・府中市)に居を構える。
中山競馬場
起源は1907年の松戸競馬場。1919年に東葛飾郡中山村に移転し、翌年に中山競馬倶楽部との名称になる。1927年に現・船橋市に馬場移動。1937年に日本競馬会に統合、中山競馬場となる。
京都競馬場
起源は1907年の島原競馬場、主催は京都競馬倶楽部。1913年に競馬場が焼失し現・京丹波町に移転し、須知競馬場と改称。現在の京都市伏見区で競馬が行われるようになったのは1925年から。
阪神競馬場
起源は1907年の鳴尾競馬場。1937年に日本競馬会阪神競馬場と改称。戦中の1943年に飛行場として用地を接収され閉場する。現・仁川に移転し競馬が行われたのは戦後の1949年から。
国営競馬の時代
国営競馬
1948年から1954年にかけて国(農林省)が施行体となり競馬を開催した。戦争により馬の数も減り競走馬の確保にも苦慮した。各地ではじまった競輪などの公営競技に人気で押され、競馬場の入場者、売上も大きく落ち込む。馬券の控除率を競輪並みに引き下げるなどし、1950年頃には売上が上昇に転じるが、国が興行的性格の強い競馬を主催することに異論や批判が出始めたため、民間団体へ運営を引き継ぐべきとする声が高まっていく。
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1945年9月2日-1952年4月28日連合国軍による占領下
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1946年2歳戦がスタート※当時の表記は3歳
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1948年7月13日競馬法が施行競馬法の趣旨を「売上の一部を財源とし、馬の改良増殖と畜産の振興、国および地方公共団体の財政に寄与すること」と定めた。
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1949年12月3日第1回 朝日杯3歳ステークス新設
現・朝日杯FS。関東の2歳王者決定戦として開催。朝日新聞社がスポンサーになったのを契機に、他の新聞社の社杯が次々と新設されていく。 -
1949年12月18日第1回 阪神3歳ステークス新設
現・阪神JF。関西の2歳王者決定戦として開催。 -
1951年7月1日第1回 安田賞(安田記念)新設
競馬法制定や東京優駿(日本ダービー)の創設などに尽力し、日本中央競馬会の初代理事長も務めた安田伊左衛門に由来する。
戦後復興から高度成長期へ
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1954年日本中央競馬会 発足日本競馬会は戦後、GHQに独占禁止法の指摘を受け解散。国営競馬を経て、現在の特殊法人日本中央競馬会(JRA)が設立される。
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1954年啓衆社賞(年度表彰)はじまる競馬予想紙(競週ニュース、ケイシュウNEWS)を発行していた啓衆社が競走馬を称えるための賞として設立。
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1956年日本短波放送による中央競馬実況中継放送開始ラジオ
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1956年12月23日第1回 中山グランプリ(有馬記念)新設
中山競馬場に新スタンドが建設され、暮れの中山競馬の目玉として中山グランプリが新設された。ファン投票により出走馬が選出する方式がはじめて採用された。創設者のJRA理事長、有馬頼寧が急逝したため、有馬の功績を称え2回目から有馬記念に改称。第1回の勝ち馬は顕彰馬にも選出されることになるメイヂヒカリ。
八大競走(クラシック、天皇賞、有馬記念)が出揃う。 -
1957年9月ヘルメットと枠順による色別帽を着用騎手
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1957年12月中山競馬場で勝馬投票券発売集計器(トータライザー)を導入競馬場
それまでは黒板に勝ち馬投票の売上高を掲示していたが、トータライザーにより集計された売上高を人為的に電動掲示板に掲示するようになった。コンピューター管理がなされるのは1966年以降のこと。 -
1959年9月タイム表示を10分の1秒単位に従来の表示は5分の1秒単位。
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1958年保田隆芳、モンキー乗りを習得騎手
ハクチカラの主戦としてアメリカ遠征に向かった当時38歳の保田騎手。日本では天神乗りという騎乗法が一般的だったが、現地でモンキー乗りを習得する。モンキー乗りは鞍に腰を下ろさず、短くした鐙(あぶみ)の上に立ち、腰を浮かせて背を丸め、膝でバランスを取りながら前傾姿勢で騎乗する、いまでは一般的な騎乗法。
保田隆芳は、1959年から61年にかけて全国リーディングジョッキー、1968年には史上初の八大競走完全制覇、天皇賞は通算10勝。調教師としてトウショウボーイを手掛けた。2004年に殿堂入り。 -
1959年2月23日ハクチカラ、日本調教馬として初の海外重賞制覇ハクチカラはダービー、天皇賞秋、有馬記念などを勝ち、国内32戦20勝の戦績の後、5歳から長期のアメリカ遠征に赴く。日本馬のはじめての欧米地域への遠征であり、JRAが遠征費を一部補助した。
遠征最初の2戦は最下位。6戦目は現地の騎手がまたがり2着。11戦目のワシントンバースデイH(芝2400m)をブービー人気ながらクビ差制す。当時の世界賞金記録を保持していたラウンドテーブルも出走していたが、重ハンデがたたり最下位に敗れている。この1レースの獲得賞金だけで、ハクチカラが日本で稼いだ総賞金を越えた。アメリカ通算17戦1勝。
ワシントンバースデイHはサンルイスオビスポHと改称され、1973年にはグレード制導入に伴いG2に格付けされている。現在は廃止。この次に日本調教馬がアメリカの重賞を勝つのは2005年のシーザリオ。 -
1959年4月5日フジテレビが競馬中継を開始テレビ
開局直後のフジテレビが競馬中継をはじめる。当初は中山競馬のみで、東京競馬はNETテレビ(現テレビ朝日)が中継していた。京都競馬、阪神競馬は関西テレビが1959年3月29日から中継をしている。 -
1960年ウッド式発馬機を導入競馬場
ウッド式発馬機はいわゆるスタートゲート。初期は旗を振ってスタートの合図をしていたものが1926年からは濠州式バリヤーという、綱をコースの内外にわたし、バネで斜め前上方にはね上げるものを使っていた。1975年に電動式発馬機に代わり、以後も改良が続けられる。 -
1960年6月26日第1回 宝塚記念新設
関西地区の競馬を盛り上げようと、上半期の締めくくりの競走として創設。有馬記念と同じくファン投票が採用された。 -
1960年チャイナロック輸入種牡馬
父ロックフェラは大種牡馬ハイペリオンと英牝馬二冠などしたロックフェルとの間に生まれた良血馬。競争成績は凡庸だったが種牡馬として成功を収めた。母メイウォンは仏フォレ賞3着などした活躍馬。
リーディングサイヤー獲得は1回のみだが、長きにわたり一級種牡馬として活躍した。また性豪との異名をとり当時では異例の127頭もの種付けをした年もあった。
主な産駒に昭和40年代の地方競馬を代表する名馬ヤシマナシヨナル、史上初の1億円馬タケシバオー、元祖アイドルホース・ハイセイコーなど。 -
1964年2月東京競馬場に中央競馬初となるダートコース競馬場
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1964年5月2日ノーザンダンサー、ケンタッキーダービー制覇アメリカ
カナダ生産馬で加米18戦14勝、主な勝ち鞍はケンタッキーダービー、プリークネスS。種牡馬となり、2年目にニジンスキー(英三冠馬)を輩出、その後も活躍馬が続き、英米でリーディングサイアーを獲得。初年度の種付け料の1万ドルは、1985年には交配数が36頭に抑えられていたこともあり95万ドル(約2億円)にまで跳ね上がった。総産駒数は635頭のうちステークスウィナーが23%となる147頭にも及んだ。
産駒は種牡馬としても大成功を収め、サドラーズウェルズ、ダンジグ(その仔デインヒル)、ヌレイエフ、ストームバード(その仔ストームキャット)などを通じて、その勢力を世界中に拡大していった。日本では直仔のノーザンテーストが10回のリーディングサイアーを獲得している。 -
1964年1月場内テレビでオッズと馬体重を発表競馬場
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1964年シンザン、三冠19戦15勝2着4回。皐月賞、ダービー、菊花賞、有馬記念、天皇賞秋と当時のすべての格式高い競走(八大競走のうち天皇賞は一度しか優勝できず、桜花賞、オークスは牝馬限定のため)を制した五冠馬。その走りは「鉈(なた)の切れ味」と称された。この後、シンボリルドルフが登場する1984年まで20年にわたり「シンザンを超えろ」の合言葉で日本競馬界の目標であり続けた。なお宝塚記念も制している。
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1965年3月第2回中山競馬から自動タイム計測装置を採用競馬場
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1965年八百長、山岡事件中央競馬史上最大の不正事件。八百長に加担した中央競馬の騎手計4名が起訴され有罪となった。
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1969年10月5日スピードシンボリ、凱旋門賞出走欧州を代表する競走に日本馬が初出走。シリウスシンボリは4歳で天皇賞春を制し、秋にはアメリカのワシントンDC国際に招待され5着。6歳時に欧州遠征に臨み、キングジョージ(5着)、ドーヴィル大賞典(10着)、凱旋門賞(10着)と出走。帰国初戦の有馬記念を優勝。翌年も現役を続け、宝塚記念と有馬記念を勝った。国内通算39戦17勝。
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1969年11月11日栗東トレーニングセンター開場式トレセン
厩舎はもともと各競馬場に分散して構えられ、競馬場は競馬を開催する場所であり、競走馬が生活し調教も行う場所でもあった。高度成長期に入ると、競馬場周辺の市街化が進み、競走馬を飼育管理に適さなくなっていった。また競馬人気も相まって競走馬の頭数も増加し手狭になったこともあり、競走馬の管理・調教に特化した施設をつくることとなった。 -
1967年12月24日有馬記念の中継がカラー放送にテレビ
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1969年5月18日社台ファーム、クラシック初制覇馬主
シャダイターキンがオークスを優勝。
1955年に吉田善弥氏が父善助の社台牧場(北海道白老町社台)より独立し、千葉社台牧場(千葉県富里)を設立。1962年に社台ファーム千葉と改称する。 -
1971年馬の輸入自由化許可制であったものが自由化される。内国産馬振興のため、増えると予想された持ち込み馬(海外で種付けされ日本で生まれた馬)は外国産馬と同等の扱いを受けることになり、この制限は1983年まで続く。
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1971年優駿賞(年度表彰)はじまるJRAの機関紙「優駿」に主催変更。
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1971年ヨーロッパで競走の格付け制度(グループ制)が創設欧州
パターンレース(毎年同じ条件で「重ねて」行われる競走→「重賞」の由来でもある)について格付けがなされる。競走馬の流通がひろい地域で行われるようになり、主にセリの際にその馬の父や母が残した競走成績について、そもそもどのような競走であるのかを格付けをする必要があった。北米でも1973年からグレード制がはじまる。 -
1973年4月15日ハイセイコー、皐月賞制覇ハイセイコーは第一次競馬ブームを巻き起こした国民的アイドルホース。皐月賞の勝利で、競馬以外のメディアでも盛んに扱われるようになり、NHK杯では東京競馬場に16万を超える入場者が押し寄せた。博打から大衆娯楽へと見方が変わったきっかけともいわれる。
地方の大井競馬場でデビューし6連勝後、中央競馬へ移籍。移籍当初から大きな注目を集め、弥生賞、スプリングS、皐月賞、NHK杯(G2芝2000m)と勝ち進み、地方競馬の怪物はダービーで史上最高の単勝支持率66.6%%の1番人気に支持された。ダービーは3着に敗れるが人気はむしろ高まったとされる。 -
1973年6月自動馬券発売機、運用開始馬券
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1976年10月電話投票制度がはじまる馬券
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1976年11月21日第1回 エリザベス女王杯新設
1975年にエリザベス2世(現女王)が来日したことを記念し創設された。前身は牝馬限定の重賞ビクトリアカップ。ビクトリアカップも中央競馬における3歳牝馬三冠競走の最終戦に位置づけられており、条件に変更はなかった。 -
1977年9月勝馬投票券の買い替え廃止馬券
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1978年4月10日美浦トレーニングセンター開場トレセン
関東地区の厩舎に所属する馬の調教は、東京競馬場と中山競馬場、白井の拡張厩舎街(いまの競馬学校の所在地)でおこなわれていた。1968年に美浦村が候補地に選定されたが、栗東に比べ開場に月日がかかったのは用地買収に4年を要したため。
経済成長とともに世界を見据えた馬づくりへ
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1979年ノーザンテースト、初年度産駒デビュー種牡馬
世界を席巻していたノーザンダンサーの血を求め、社台グループ総帥吉田善哉氏が1972年にニューヨーク州サラトガの1歳馬のセリで購入。英仏20戦5勝、仏G1フォレ賞を勝った。
通算10回のリーディングサイアー、17年連続のリーディングブルードメアサイアー(母父)を獲得。主な産駒にダイナガリバー(ダービー、有馬記念)、アンバーシャダイ(有馬記念、天皇賞春)、ダイナカール(オークス)など。母父としてはダイワスカーレット(有馬記念、桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯)、エアグルーヴ(天皇賞秋、オークス)、サクラバクシンオー(スプリンターズS2回)、ダイワメジャー(皐月賞、天皇賞秋、安田記念、マイルCS2回)、デュランダル(マイルCS2回、スプリンターズS)など。 -
1979年ミスタープロスペクター、初年度産駒デビューアメリカ
ミスタープロスペクターは米14戦7勝、ダートの短距離馬で重賞未勝利。凡庸な競走成績ながら血統とレコードを出した快速を買われ種牡馬入り。優秀な馬が集まるケンタッキー州での繋養ではなかったが、フロリダ州で良質といえる牝馬を集め初年度は27頭に種付けをした。そのなかからイッツインジエアがG1を5勝する活躍をみせる。二世代目の活躍を受けてケンタッキー州の名門クレイボーンファーム(過去の繋養馬にナスルーラ、ボールドルーラー、ニジンスキー、ダンジグなど)に転厩。ファピアノ(メトロポリタンH)、ミスワキ(仏サラマンドル賞)、コンキスタドールシエロ(ベルモントS)など毎年のように活躍馬を量産し、初年度の7500ドルの種付け料は、1994年に46万ドルにまで達した。産駒は種牡馬としても優秀で、ファピアノ、マキャベリアン、キングマンボ、シーキングザゴールドなどを通じ、アメリカ外にもその勢力を拡大していった。1995年からの20年間、米三冠競走の勝ち鞍の半数以上をミスタープロスペクター系で占めている。日本ではキングカメハメハ系の活躍が顕著。
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1980年1月騎手への制裁点数制が導入騎手
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1981年天皇賞、勝ち抜き制の廃止条件変更
天皇賞は、優勝したことのある馬の再度の出走を認めない勝ち抜き制を採用していた。これは天皇賞の勝ち馬が負けることになれば、優勝馬の威厳を下げてしまうことになりかねず、早く種牡馬となり競走馬の改良に貢献せよ、という考え方に基づいていた。実際に天皇賞の優勝後は古馬の目標レースもなく、勝つほどに重い斤量(ときには70㎏越え)を負担するシステムだったため、引退する馬が多かった。 -
1981年11月22日第1回 ジャパンカップ新設
国際招待競走としてジャパンCがはじまる。JRAの厩舎関係者表彰において最優秀騎手賞と最優秀調教師賞の資格を得るための「1着をとらねばならない競走」のひとつに指定されており、いわゆる「八大競走」と同格の扱いを受ける。
第1回の日本馬は1頭も掲示板に乗れず。勝ったメアジードーツはアメリカの5歳牝馬。芝の重賞を4勝していたがG1タイトルはなし。通算33戦12勝でジャパンC勝利を手土産に引退した。日本馬の初勝利は1984年のカツラギエース。 -
1982年3月23日競馬学校、開校騎手及び厩務員の候補生を育成する機関。学校の名称だが、法律上の学校ではなくJRAの教育訓練施設。騎手過程一期生には柴田善臣、石橋守など。
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1983年札幌競馬場でウイナーズ・サークルをはじめて設置競馬場
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1984年グレード制導入重賞競走に格付け(G1、G2、G3)がなされた。それまでは八大競走が別格に扱われていたが、それらに加えジャパンC、宝塚記念、安田記念、マイルCS、エリザベス女王杯、朝日杯3歳S、阪神3歳Sの計15競走にG1が認定された。
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1984年重賞馬券の全国発売馬券
重賞競走は原則としてすべて全国発売となる。それまでは八大競走のほか、中山大障害や宝塚記念などごく一部の格の高い重賞レースのみが全国発売であった。1983年に場外締切が開催競馬場の10分前に短縮されるまでは開催競馬場以外の投票締め切り時刻は発走の1時間以上前である事が多く、パドックや本馬場入場を参考とした馬券購入はできなかった。 -
1984年10月6日東京競馬場に大型ターフビジョンが設置競馬場
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1984年10月28日天皇賞秋が3200mから2000mに条件変更
春は長距離、秋は中距離と住み分けがされる。距離短縮初回の1984年は前年の三冠馬ミスターシービーが菊花賞以来の勝利を飾った。1987年からは3歳馬も出走できるようになる。 -
1984年11月11日シンボリルドルフ、無敗三冠クラシックを史上初の無敗で制覇。獲得したG1タイトル7つは、2020年にアーモンドアイに抜かれるまで長きにわたり最多を記録した。
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1984年11月18日第1回 マイルチャンピオンシップ新設
短距離路線の充実のため新設。 -
1984年11月10日第1回 ブリーダーズカップアメリカ
アメリカの競馬の祭典。第1回は1日に7つのG1競走が開催された。メイン競走はダート2000mのクラシック。
競馬人気再興のために創設。アメリカ国内で繋養されている種牡馬の所有者が資金(種付け料1回分)を負担し、資金を出した種牡馬の産駒にのみ出走権が認められる。登録外種牡馬の産駒の出走には多額の追加登録料がかかるのが特徴。(以降、改定あり) -
1984年顕彰馬制度の設立JRA30周年記念事業の一環として設立された、いわゆる殿堂入り。当初選出されたのは次の10頭。クモハタ、セントライト、クリフジ、トキツカゼ、トサミドリ、トキノミノル、ハクチカラ、シンザン、ハイセイコー、トウショウボーイ。
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1984年マエコウファーム、開場牧場
前田幸治氏が北海道新冠町にマエコウファームを開場。2009年に社名をノースヒルズに改称。1998年に生産馬のファレノプシスが桜花賞を優勝。主な生産馬はキズナ(2013ダービー)、コントレイル(2020三冠)など。 -
1985年11月栗東トレセンに坂路コーストレセン
当時の関西の競馬場は平坦なコースが多く、関西馬が東京や中山に遠征すると慣れない急坂に苦しむ馬が多かった。関西馬の低迷を打開すべく、対策として坂路コースが設けられた。調教ノウハウが確立されると立場は逆転し、西高東低といわれるほどに関東馬を圧倒していく。1993年に美浦に坂路コースが完成するまでは、レースの数週間前から栗東に滞在し調教をおこなう関東の厩舎が現れる(いわゆる栗東留学)ほど、その効果は絶大だった。 -
1986年メジロラモーヌ、初の牝馬三冠桜花賞、オークス、エリザベス女王杯(当時は3歳牝馬限定、京都芝2400m)の三冠とそれぞれのトライアルレースを制し、完全三冠を達成。
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1987年日本中央競馬会の略称がNCKからJRAへ「Nippon Chuo Keiba-kai」から「Japan Racing Association」に。
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1987年発走ファンファーレの一新競馬場
現在の楽曲に。東日本G1の作曲者はすぎやまこういち(『ドラゴンクエスト』など)、西日本G1の作曲者は宮川泰(ザ・ピーナッツ『恋のバカンス』など)。 -
1987年3月1日武豊デビュー騎手
祖父は馬主協会元会長、父は元騎手(八大競走8勝)で調教師。騎手デビュー年から69勝をあげ、2年目の菊花賞で初タイトル、3年目には全国リーディングを制した。若き天才として脚光を浴び、オグリキャップとともに競馬ブームの中心的存在として、その名は全国の競馬に関心のない層にまで知れ渡った。以後も第一人者として各種記録を塗り替え続ける。 -
1987年JRA賞(年度表彰)はじまる主催がJRAに変更。
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1988年サドラーズウェルズ、初年度産駒デビュー欧州
サドラーズウェルズは通算11戦6勝、主な戦績は愛2000ギニー、英エクリプスS、キングジョージ2着、仏ダービー2着。アイルランドのクールモアスタッドで種牡馬入りすると、欧州各国でリーディングサイアーに輝いた。代表産駒のガリレオ(英愛ダービー)、モンジュー(凱旋門賞、キングジョージ)をはじめG1馬は60頭を超える。後継を介し、現在の欧州の主流血統となっている。 -
1989年平成元年
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1990年5月27日ダービー、中央競馬史上最高の入場者数にダービー当日、東京競馬場には19万6517名の入場者があった。勝ち馬はアイネスフウジン。
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1990年12月16日スプリンターズSが格上げされ、初のスプリントG1に昇格
スプリンターズSは1967年に中山競馬場芝1200mのハンデ重賞競走として創設。当時は3歳以上が出走できる唯一のスプリント重賞だった。グレード制導入時にG3、3年後にG2に格上げ。昇格初回はバンブーメモリーが優勝。 -
1990年12月23日オグリキャップ、ラストランを飾る第二次競馬ブームの主役。地方競馬の笠松でデビューし12戦10勝の戦績を引っ提げ、中央に移籍。重賞を勝ち続けるが、クラシック登録がなく皐月賞、ダービーには出走できず。中央通算20戦12勝、主な勝ち鞍は有馬記念2回、マイルCS、安田記念。
G1連闘など話題には事欠かず、武豊を背に「奇跡の復活劇」を遂げたラストランの有馬記念では、ウイニングランで割れんばかりのオグリコールが起こった。 -
1991年1月降着制度が導入それまで進路妨害などがあった場合は、加害馬は一律に失格であった。しかし実際の運用は失格が頻繁に認められるのを避けるため、騎手への制裁にとどめることが多かった。これにより乱暴な騎乗が目立ち、また失格になった馬は馬券外となることから改善が求められていた。
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1991年10月5日単枠指定の廃止馬券
かつては連勝式馬券(上位2頭をあてる)は枠連しかなく、馬番はなかった。これは複数馬を1つの枠にすることで組み合わせ総数を収め、配当を下げ射幸心を抑えることが目的であった。単枠指定は、圧倒的な人気が予想される馬を1頭のみの枠にする制度であったが、馬番連勝複式馬券が全国発売されることに伴い廃止となった。 -
1992年山元トレセン、開設外厩
宮城県亘理郡山元町になる社台グループの競走馬のトレーニングセンター。約300頭が収容可能な厩舎設備を誇る。 -
1992年JRAが外国産馬の出走制限緩和8カ年計画を発表国内の馬産の保護を理由に、外国産馬の出走には厳しい制限が設けられる時代が長く続いた。1960年代は年間輸入頭数が制限されており、輸入は繁殖馬が優先された。アメリカやオセアニアの生産界がジャパンマネーを狙い障壁撤廃を迫ったこともあり、1990年から徐々に競走馬の輸入は増えていく。2006年を境に輸入数が落ち着くのは内国産馬がレベルが向上したためだろう。
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1992年ジャパンカップが国際G1に認定それまでは日本国内でのみ通用するローカルG1であり、はじめて日本の競走で国際的に認められるG1となった。2001年に宝塚記念、2004年に安田記念とマイルCSと徐々に国際G1が増えていくことになる。
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1992年ダービーのフルゲートが18頭に制限頭数のなかった1953年の33頭出走が過去最多。60年にスターティングゲート採用され出走可能頭数が設定。当初の上限は33頭、66年に28頭に変更。安全面への配慮から東京競馬場2400mのフルゲートは86年に24頭、90年に22頭、91年に20頭、91年秋に18頭と変遷していった。
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1992年8月29日ダービースタリオン全国版発売ゲーム
競走馬育成シミュレーションゲーム、通称ダビスタ。若い世代を中心に一大ブームを巻き起こし、ファン層の拡大につながると同時に、それまで縁遠かった血統や配合に注目が集まる。 -
1994年短期免許制度の導入騎手
ニュージーランドの女性騎手リサ・クロップが第1号。 -
1994年9月4日JRA所属騎手による海外G1初制覇騎手
武豊騎手がフランスG1ムーラン・ド・ロンシャン賞にて、フランス調教馬スキーパラダイスに騎乗し優勝。スキーパラダイスの馬主は社台ファームの吉田善哉(のち吉田照哉)。 スキーパラダイスは日本で繁殖牝馬となり、2008年の皐月賞馬キャプテントゥーレは孫にあたる。 -
1994年11月6日ナリタブライアン、三冠鼻につける矯正具が特徴的でシャドーロールの怪物の異名をとった。1つ上の半兄に前年の年度代表馬ビワハヤヒデがいる。両馬の対決に高い注目が集まったが、菊花賞の前週の天皇賞秋に出走したビワハヤヒデが故障を発生し引退したため、実現は叶わなかった。
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1995年1月1日グリーンチャンネル、配信開始テレビ
ケーブルテレビや通信衛星によるJRA電話投票会員向けの配信を開始。
すべてを飲み込んだサンデーサイレンスの時代
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1995年サンデーサイレンス、初年度産駒デビューサンデーサイレンスは1989年のアメリカ年度代表馬。通算14戦9勝で、主な勝ち鞍にケンタッキーダービー、プリークネスステークス、BCクラシック。引退後に社台スタリオンステーションで種牡馬入り。
当初はアメリカでの種牡馬入りが模索されたが、当馬に対する評価は低いこともあり、約16憶5000万円で日本に輸入されることとなった。初年度の種付け料は1100万円。初年度産駒のデビューから猛威を振るい、2年目にしてリーディングサイアーを獲得。以後、圧倒的な差をつけ13年連続でリーディングサイアーを獲得。全世代でG1馬を輩出。中央競馬の種牡馬記録を次々に塗り替え、日本競馬のレベルを一気に引き上げた。
主な産駒にディープインパクト(三冠、天皇賞春、宝塚記念、ジャパンC、有馬記念)、スティルインラブ(牝馬三冠)、スペシャルウィーク(ダービー、天皇賞春秋、ジャパンC)、アグネスタキオン(皐月賞)、サイレンススズカ(宝塚記念)、デュランダル(スプリンターズS、マイルCS2回)など。 -
1995年中央地方指定交流競走が開始地方
大井競馬の帝王賞、東京大賞典などがJRAおよび他の地方競馬所属馬も出走可能となった。岩手競馬のマイルCS南部杯は新設され交流競走に。1996年には川崎競馬の川崎記念、船橋競馬のかしわ記念が追加。 -
1995年10月1日ラムタラ、無敗で欧州三大競走制覇欧州
デビュー戦を勝利すると、長期休養明けでダービー優勝。次走でイギリスのキングジョージを制し、秋にはフランスの凱旋門賞も勝ち取った。1971年のミルリーフ以来、史上2頭目の欧州三大競走制覇を達成。4戦4勝で引退。イギリスで種牡馬となるが、すぐに3000万ドル(約33億円)で日本に輸入された。しかし目立った活躍馬は出せず、2006年に24万ドルでイギリスに買い戻された。 -
1996年3月JRA、初の女性騎手がデビュー騎手
競馬学校の12期生であった細江純子、牧原(増沢)由貴子、田村真来の3名の女性騎手がデビューを果たす。3月17日には牧原由貴子が初勝利をあげている。 -
1996年3月27日第1回 ドバイワールドカップUAE
ドバイ首長国のアミール(首長)シェイク・モハメド殿下が創設。以後、世界最高賞金レースとしての地位を確立していく。第1回の優勝馬は1995、1996年のアメリカ年度代表馬シガー。日本から遠征のライブリマウントは6着。
1998年にドバイターフクラシック(現シーマクラシック)、2000年にはドバイデューティフリー(現ターフ)が創設し規模を拡大していく。 -
1996年5月12日第1回 NHKマイルカップ新設
それまでのNHK杯は芝2000mのG2ダービートライアルだった。3歳春の短距離馬の目標となる競走に条件変更となった。まだ外国産馬にクラシックへの出走権利がなく、第1回は出走18頭中14頭が外国産馬となり、外国産馬のダービーと呼ばれた。 -
1996年5月19日高松宮杯がスプリントG1に条件変更
高松宮杯は中京芝2000mの条件で、唯一の夏のG2として開催されていた。短距離競走の体系整備のため距離を短縮し、時期も春に移動となった。中央場所(東京、中山、京都、阪神)以外では初の常設G1競走となった。競輪の高松宮杯において、宮家への謝礼金が問題となり優勝杯の下賜がなくなったことから、1998年に高松宮記念に改称。 -
1996年10月20日第1回 秋華賞新設
3歳牝馬の三冠最終戦としてはエリザベス女王杯が京都芝2400mで施行されていた。エリザベス女王杯が古馬に開放されたことにより新設。条件は京都芝2000m。 -
1996年11月10日エリザベス女王杯に古馬開放条件変更3歳牝馬限定戦だったエリザベス杯が古馬へ開放。古馬牝馬限定のG1ははじめてとなる。条件は京都芝2200mに。
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1996年JRA年間売上ピーク馬券
1996年の年間売上は約4兆円。有馬記念の1レースだけで約875億円を売り上げた。2011年には約2兆3000憶円にまで落ち込む。 -
1997年2月16日フェブラリーSがダートではじめてのG1に昇格
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1997年エアグルーヴ、牝馬では26年ぶりの年度代表馬に選出
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1998年日本調教馬の海外G1初制覇フランス
武豊騎乗のシーキングザパールがフランスのG1モーリス・ド・ギース賞を優勝。翌週にはタイキシャトルが同じくフランスのG1ジャック・ル・マロワ賞を制した。両馬ともにアメリカで生産された外国産馬であった。 -
1998年セレクトセール初開催セリ
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1999年ワールドレーシング・チャンピオンシップ開催世界
UAEの航空会社エミレーツ航空の協賛によりはじまった競馬の世界選手権シリーズ。凱旋門賞、BCなど世界的な大レースでの走成績をポイント化し、それをもとに年間順位が決定した。日本ではジャパンCが対象レースとなっていた。2005年まで開催された。 -
1999年5月日本産馬、初めての海外G1制覇アイルランド
ノーザンファームで生産され、欧州でデビューしたヘクタープロテクター産駒のシーヴァがアイルランドのG1タタソールズゴールドカップで優勝。 -
1999年ワイド導入馬券
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1999年メイセイオペラ、地方所属馬として初の中央G1(フェブラリーS)制覇
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1999年エルコンドルパサー、欧州長距離主要G1で活躍(サンクルー大賞制覇、凱旋門賞2着)
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1999年香港カップG1昇格香港
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1999年障害レースにグレード制導入
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1999年中山グランドジャンプに改称改称
中山大障害春をJ・G1として中山グランドジャンプに改称。 -
2000年外国産馬の天皇賞出走可能(2頭まで)
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2000年5月6日関口房朗氏、日本人オーナーとしてケンタッキーダービー初制覇アメリカ
関口房朗氏は株式会社メイテックの創業者。「房朗が一番」を意味する「フサイチ」の冠名で競走馬を所有し、セレクトセールでは高額で落札をおこなう常連だった。1996年の日本ダービーをフサイチコンコルドで優勝。
1998年にキーンランド・ジュライセールで400万ドル(約5億5000万円)で落札したのが、ミスタープロスぺクター直仔のフサイチペガサス。5戦4勝で臨んだケンタッキーダービーを1番人気に応え制する。アジア人として初のダービーオーナーとなった。引退後にはクールモアスタッドに種牡馬の権利を80億円越えで売却したと報じられた。 -
2000年アグネスワールド、日本馬としてイギリスG1初制覇アグネスワールドが英スプリントG1ジュライCを優勝。日本調教馬として初の英G1制覇となった。アグネスワールドは外国産馬、国内の実績はスプリンターズS2着2回、CBC賞-G2など。前年に仏スプリントG1アベイ・ド・ロンシャン賞を優勝しており、海外での2つ目のタイトルとなった。通算中央15戦5勝、地方1戦1勝、仏英米4戦2勝。
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2000年テイエムオペラオー、古馬中長距離G1全制覇
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2001年馬齢表記を満年齢へ変更国際表記に合わせ、数え年を満年齢に変更。人の年齢について、東アジア諸国では古くから数え年が用いられてきた。日本では1902年の法律で満年齢を使用することとしたが、一般に普及するのは戦後になってからであった。
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2001年外国産馬のダービー出走可能(2頭まで)
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2001年10月31日第1回 JBCクラシック地方
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2002年馬単・3連複 発売開始
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2002年12月25日早田牧場、倒産牧場
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2003年安藤勝己、地方出身騎手としてはじめて中央競馬に移籍
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2003年全レースが全国発売対象に馬券
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2003年6月1日外国人騎手によるダービー初制覇騎手
ミルコ・デムーロ騎手騎乗のネオユニヴァースが第70回のダービーを優勝。 -
2003年連敗街道ハルウララ、ブームになる地方
ハルウララは高知競馬所属で通算113戦未勝利。
60連敗を越えた頃から徐々にメディアに取り上げられる。100連敗目には高知競馬史上の単勝売り上げを記録し、106連敗目には中央競馬の武豊が騎乗するなど全国的に話題を集めた。ハルウララの単勝馬券を「当たらないから交通安全のお守りになる」という理由で買う者まで現れた。 -
2004年3連単 発売開始馬券
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2005年ディープインパクト、無敗三冠達成
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2005年仏ダービー、芝2100メートルに短縮フランス
伝統にダービーは2400mで開催されてきたが、フランスでは2005年より2100mに距離を短縮。欧州での中距離競走の重要性が増したこともあったが、主目的はフランス馬の英愛転戦を防ぐためとされる。これによりマイルの仏2000ギニーからダービーへの参戦が容易になり、一定の効果があった。 -
2005年ガリレオ、初年度産駒デビュー欧州
ガリレオは父はサドラーズウェルズ、母は凱旋門賞馬のアーバンシーで通算8戦6勝、主な勝ち鞍は英愛ダービー、キングジョージ。アイルランドの名門クールモアスタッドで種牡馬入りすると、中長距離戦線で一流馬を続々と輩出。英ダービーでは史上最多となる5頭の勝ち馬を誕生させ、欧州の主流血統の地位を不動のものとした。主な産駒にフランケル(英2000ギニー、英チャンピオンSなど14戦無敗、G1を10勝)、ニューアプローチ(ダービー、英愛チャンピオンS)、ナサニエル(キングジョージ、エクリプスS、産駒にキングジョージ3連覇・凱旋門賞連覇のエネイブル)など。 -
2005年7月3日シーザリオ、アメリカG1優勝オークスを制したシーザリオはアメリカに遠征し、国際招待競走のアメリカンオークス(芝2000m)を優勝。これが日本調教馬として初のアメリカG1制覇。アメリカンオークスは2002年に創設、2004年に国際G1認定、2010年には賞金を大幅減額し、招待を取りやめた。
シーザリオは国内5戦4勝、米1戦1勝。産駒にエピファネイア(ジャパンC、菊花賞)、リオンディーズ(朝日杯FS)、サートゥルナーリア(皐月賞、ホープフルS)がいる。 -
2006年デルタブルース、メルボルンカップ優勝豪州
日本から遠征した菊花賞馬デルタブルースがメルボルンカップに優勝。南半球で開催されるG1競走での日本馬の優勝は初めて。メルボルンカップは1861年に創設されたオセアニアを象徴するハンデ戦の競走。開催日はメルボルン大都市圏ではメルボルンカップ・デーとして祝日となる、オーストラリアの国民的イベントである。 -
2006年3月25日日本馬によるドバイG1競走初制覇ドバイハーツクライがドバイシーマクラシックを優勝。
パート1に認定、ポストサンデーサイレンス
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2007年日本 パート1に認定国際セリ名簿基準委員会が日本をパート1国に認定。国際セリ名簿基準委員会は、全世界的にセリ名簿の記載基準の統一性を確立することを目的とした団体で、国ごとに異なる競馬のレベルを3段階に分ける。パート1に認定されるとその国の格付けは国際的に通用する格付けとなり、また重賞競走は国際開放を求められる。これまではパート2国であり、一部を除き国内でしか認められない重賞競走だった。
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2007年5月27日ウオッカ、牝馬として64年ぶりのダービー制覇牝馬のダービー制覇は3頭目。1961年に3着したチトセホープ以降、掲示板に載った馬すらいなかった。
ウオッカは国内22戦10勝、ドバイ4戦未勝利。ダービーのほか、ジャパンC、天皇賞秋、安田記念などを制し、G1タイトルは7つ。2008、2009年と連続して年度代表馬に選出されている。 -
2008年12月28日ダイワスカーレット、牝馬として37年ぶりの有馬記念制覇牝馬の競走体系が整ってくる戦後においてはダービーへの牝馬挑戦は稀であった。対する有馬記念には毎年のように出走するものの、1971年優勝のトウメイ以後は、1978年2着インターグロリア、1983年4着ダイナカール、1994年2着ヒシアマゾン、1997年3着エアグルーヴ、2001年トゥザヴィクトリーとタイトルにはあと一歩届かない状況が続いていた。
ダイワスカーレットは12戦8勝2着4回。主な勝ち鞍は有馬記念、桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯。同期のウオッカとはライバル関係にあり、対戦成績は3勝2敗。 -
2008年アグネスタキオン、内国産として51年ぶりのリーディングサイアー種牡馬
アグネスタキオンは4戦4勝、皐月賞を制したあと故障で引退。2002年に亡くなった父サンデーサイレンスの後継種牡馬として期待され、2008年にはリーディングサイアーを獲得。内国産種牡馬では1957年のクモハタ以来のことであった。主な産駒にダイワスカーレット(有馬記念、桜花賞)、ディープスカイ(ダービー)など。 -
2010年5月23日オークスで1着同着G1での1着同着は史上初。12分の写真判定でも差は確認されず、アパパネとサンテミリオンの1着同着となった。なおアパパネは同年の桜花賞、秋華賞も制し牝馬三冠を達成している。
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2011年WIN5 発売開始馬券
WIN5は指定5レースの1着馬をすべて的中させるもの。100円あたりの払戻金の上限は当初2億円だったが、2014年6月7日から6億円に引き上げられた。2021年3月14日には5億5444万6060円の配当がなされている。 -
1999年ノーザンファーム天栄、始動外厩
1999年に早田牧場が福島県岩瀬郡天栄村に育成施設「天栄ホースパーク」を開設。早田牧場の倒産後は、2011年にノーザンファームに売却され「ノーザンファーム天栄」となった。ノーザンファーム天栄は美浦や栗東のトレセンに劣らない設備を誇り「第二のトレセン」「最強の外厩」などと称される。 -
2011年3月26日ヴィクトワールピサ、日本馬としてドバイワールドカップ初制覇ドバイ
東日本大震災の混乱が続くなか、ドバイから吉報が届く。ヴィクトワールピサがドバイワールドカップを優勝、2着にもトランセンドが入り、日本馬によるワンツー。なお、2010年から2014年にかけてはダートではなくオールウェザーでの実施。 -
2011年オルフェーブル、三冠オルフェーブルは国内17戦10勝、仏4戦2勝。主な勝ち鞍に三冠、有馬記念2回、宝塚記念。凱旋門賞には2年連続で挑戦し、いずれも2着。
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2011年5月20日メジロ牧場、解散牧場
1967年に北野豊吉氏が北海道伊達市にメジロ牧場を開場。1982年にメジロティターンで天皇賞秋を制し、八大競走初優勝。天皇賞制覇に重きを置き、長距離馬の育成に定評があった。2000年代に入り成績が低迷、解散に至る。同時に馬主業からも撤退。主な生産馬にメジロラモーヌ(牝馬三冠)、メジロパーマー(有馬記念、宝塚記念)、メジロライアン(宝塚記念)、メジロドーベル(オークス、秋華賞、エリザベス女王杯2回)、メジロブライト(天皇賞春)など。 -
2012年ジェンティルドンナ、牝馬三冠ジェンティルドンナは国内17戦9勝、ドバイ2戦1勝。主な勝ち鞍は牝馬三冠、ジャパンC2回、有馬記念、ドバイシーマクラシック。
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2015年1月外国人騎手のJRA移籍騎手
2013年より外国人騎手へJRAの騎手免許試験の受験資格が認められる。2015年1月にフランス国籍のクリストフ・ルメールとイタリア国籍のミルコ・デムーロの2名が最初の合格者となった。同年3月1日より騎乗を開始。 -
2015年10月31日アメリカンファラオ、史上初のグランドスラムアメリカ
アメリカンファラオ37年ぶり12頭目となるアメリカクラシック三冠を達成。当年のBCクラシックも優勝し、グランドスラム(三冠+BCクラシック)を史上初めて成し遂げた。通算成績は11戦9勝。 -
2016年海外競馬の馬券発売開始馬券
日本馬の海外遠征が増えると、有力馬の国内競馬への出走数が減ることになる。売上の減少が懸念され、また日本馬が出走しているのに馬券売上がないと畜産振興等の公益への貢献ができないなどといったことを理由に法改正がなされた。対象は日本馬が出走する海外著名G1に限られた。 -
2018年5月27日金子真人氏、四度目のダービー制覇馬主
金子真人氏は、株式会社図研の代表取締役会長。主な所有馬はディープインパクト、キングカメハメハ、クロフネ、アパパネ、ソダシなど。1999年にブラックホークでスプリンターズSを制して以降、個人馬主ながら八大競走完全制覇、ダービー4勝、牡牝の三冠達成、白毛馬のG1奪取など、群を抜く実績をあげている。ダービー4勝目となったワグネリアンはその父ディープインパクトのみならず、母、母父、母母までが金子氏の所有という、もはやゲームの世界。 -
2018年9月1日日本生産馬、アメリカダートG1初制覇アメリカ
ヨシダがアメリカダートG1ウッドワードSを優勝。日本生産馬として初のアメリカG1制覇となった。ヨシダは北海道ノーザンファームで生産され、セレクトセール1歳馬市場でアメリカのオーナーブリーダーに落札され、アメリカでデビューしていた。 -
2019年令和元年
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2019年1月オープン競走の一部をリステッド競走と格付け
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2020年2月29日コロナ禍で無観客開催に新型コロナウイルスの感染が拡大しているのを受け、無観客で競馬が開催されることに。2020年4月7日に7都府県に第1回目の緊急事態宣言がなされ、16日には全国に範囲をひろげた。2021年9月現在も通常開催には戻っていない。なお、この間も売り上げは落ちず。
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2020年11月29日アーモンドアイ、史上初の国内G1を8勝アーモンドアイは国内14戦10勝、海外1戦1勝、主な勝ち鞍は牝馬三冠、ジャパンC2回、天皇賞秋2回、ドバイターフ、ヴィクトリアマイル。引退レースとなったジャパンCは、当年の無敗三冠馬コントレイル、同じく無敗三冠牝馬デアリングタクトとの三強対決を制した。
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2020年12月13日ソダシ、白毛馬として世界初のG1馬に1979年に白毛馬がはじめて誕生(ハクタイユー)。中央初勝利は2007年のホワイトベッセル、2019年にはハヤヤッコが重賞を勝利していた。
ソダシは祖母シラユキヒメ、母ブチコに続く白毛の牝系。デビュー以来、4戦無敗で2歳牝馬チャンピンに。翌年には桜花賞を制し、クラシックホースとなった。 -
2021年2月24日ウマ娘プリティダービー、配信開始ゲーム
競走馬を擬人化したキャラクターを育成するスマホゲーム。2018年4月に第1期アニメが放送して以降、複数のメディアで作品が展開されている。配信開始後、売上は長く1位を維持し、スマホゲームの覇権を握る。新たなファン層の開拓とともに、引退馬支援に多数の寄付が寄せられるなど各方面に影響を及ぼす。 -
2021年11月6日ラヴズオンリーユー、日本馬として米ブリーダーズC初勝利アメリカ
オークス馬ラヴズオンリーユーがBCフィリー&メアターフを優勝。アメリカ競馬はダートで主であり、芝競走であれば日本馬の適正は高いと信じられてきた。しかし、ドバイや香港に比べると遠征そのものが少ないこともあり、2010年のBCフィリー&メアターフでレッドディザイア、2012年のBCターフでトレイルブレイザーのそれぞれ4着が最高着順という結果に終わっていた。 -
2021年11月6日マルシェロレーヌ、日本馬としてアメリカダートG1初勝利アメリカ
マルシェロレーヌがアメリカ古馬牝馬最高峰のBCディスタフを制覇。日本での実績はエンプレス杯など交流重賞を3勝のみで、国内での知名度は低かった。国際格付けのある重賞勝利がなく現地でもブービー人気。2頭のケンタッキーオークス馬など豪華な面々であったが、ハイペースがたたり前崩れ。まくるように4角で先頭に立ったマルシェロレーヌがハナ差後続を抑え込み優勝を果たした。 -
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